車椅子・天主をめざす 壱拾六 |
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車いすでも城跡に行きたいのですけど |
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熊本城(熊本県) |
熊本城へは事前に航空写真などを調べて、手動車椅子で訪れるには行幸坂というかなりの長い坂をのぼらなければならないことが分っていましたので頬当門まではタクシーで、ここからも坂が続くなあと覚悟していたら親切な方が次々と現れて車椅子を押していただき、天守閣前広場まで連れて行って下さいました。砂利道の一部が固められていて車イスで移動しやすくなっていたり、本丸に車いす・オストメイト対応フル規格トイレがありました。天守閣には石段のため入れませんでしたが、本丸御殿が再建されておりこちら側は車椅子で入ることが出来内部に車椅子対応トイレもありました。帰りは行幸坂をくだって熊本市中心部の交通センターにたどり着いたのですが、長い上り坂で体力を消耗しなかったことは、翌日の日程を考えると幸いでした。当初は城の北側の棒庵坂を下ろうとしたのですがあまりに急な坂で車椅子では転倒する危険を感じたので、ルートを変更しました。
(平成20年取材) |
頬当門に到着・左に見えるの が宇土櫓といわれる建物で築城当時から残る重要文化財。 | 頬当門かの坂道は一部砂利が除かれ固められており車椅子でものぼり易い状態にしてありました。 | この坂をのぼれば本丸広場、坂をのぼる覚悟をしていたら、周囲の勧告客の皆さんが押し上げてくださいました。 |
熊本城天守閣
残念ながら石段に阻まれ内部には入れませんでした。
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熊本城天守閣前広場にあった車椅子・オストメイト対応フル規格トイレ(平成20年撮影) |
熊本城・本丸御殿には車椅子で入ることができました。加藤清正公が秀頼公を迎えようとしたともいわれている広間も見せてもらえました。 |
敷居なども忠実に再現してスロープを設けてありました。 | 本丸御殿内に車椅子対応トイレがありました。 |
加藤清正公によりつくられた名城、加藤家が改易された後には細川氏が城主となります。明治時代の西南戦争により天守閣などが焼失しますが、城は落ちることはなく。明治の近代戦においても要塞としての能力を立証するかたちになりました。 |
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広島城(広島県) |
アストラムラインの城北駅から広島城に向かいました。平城なので車椅子でも簡単に本丸に入れると思っていたのですが、スロープ通路を見つけるのに時間がかかってしまいました。天守閣には段のためあまり近づくことが出来ませんでした。
(平成14年取材) |
広島城の本丸にて記念写真 | このスロープ通路を見つけるまで本丸に入れませんでした。 | 天守閣以外の建物の再建もなされていました。 |
築城した毛利輝元は関が原の戦いで西軍総大将となったため萩に転封。変わって入城した東軍の功労者・福島正則も豊臣家恩顧の大名であったためか、城の石垣の修理をとがめられ川中島に転封。その後は浅野氏が城主となります。平和都市として知られる広島市ですが、被爆までは軍事都市で大本営が置かれたことがあったり、広島城内にも新型爆弾(原子爆弾)投下の無線を送信した石垣内の部屋が残されていました。 |
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