車椅子・天守をめざす 壱拾八

    会津若松城(福島県)

階段にはばまれ天守閣にこそ入れなかったものの、仮設スロープで段差が解消されていたり、目立たないように舗装されている部分があり、車椅子でスムーズにめぐれました。とくにゆるやかだったから可能だったのかもしれませんが、石段を保存したままで木をならべてスロープ状にして車いすでの通行を可能にしていただいたこと。著者は城めぐり好きなので、できるだけ従来の姿で城郭を保存していただきたいという思いと、車椅子常用の生活になっても城跡に出来るだけ近づきたい、櫓や天守閣にも登ってみたいという相反する考えがあります。そのような問題の解決のヒントを見せてもらったように思えました。城跡まではJR会津若松駅からリフト付き路線バスでたどり着けました。
(平成21年登城)

i会津若松城の天守閣、残念ながら車椅子での登城は出来ませんでした

天守閣近くにあった車椅子対応トイレ

著者が良いなあと思った、石段を残したままでのバリアフリーの工夫。

スロープ通路(取り外し可能と思われる。と一部舗装された城内のようす。

豊臣政権下で奥州の要として蒲生氏郷、その後五大老の1人上杉景勝が入城します。景勝は関が原の戦いでは徳川家康を領内に引き付ける役割を担いますが、家康は小山評定の後、江戸そして関が原へと引き返し、自らが会津に入ることはありませんでした。
江戸時代には二代将軍・秀忠の子・保科正之が入城、その子孫会津松平氏が治めることとなります。幕末には松平容保が京都の治安維持のため新撰組とともに佐幕勢力の中心的役割をになったため、戊辰戦争の激戦地のひとつとなります。江戸時代の開始と終焉の舞台となったお城のように私には思えます。鶴ヶ城の名称でしたしまれています。
(平成21年登城)


   小浜城(福井県)

城跡はかつての城主・酒井忠勝公を祭る小浜神社となっていたため、訪れるまでは石碑が立ってある程度のお城跡かな、と予想していたのですが対岸の漁港から住宅地のに囲まれたに大きな石垣が見えたので、いっきに期待が膨らみました。しっかりした石垣が保存されていましたが、城址の案内板によると、河川工事や宅地化により城の大部分は失われているようです。とはいえ著者は石碑だけの城跡めぐりも多く体験していますので、意外に多くの石垣が残っており江戸時代の雰囲気が感じられる場所ではありました。城跡には小浜神社の正面からは急な石組みの通路が凸凹になっていて、車椅子での単独入城は困難、反対側の住宅地側に急勾配ではありますが舗装された坂道があり、著者の簡易電動車椅子でギリギリ登ることができました。
(平成22年登城)

漁港ごしにも住宅地の上に大きな天守台の石垣が見えます。

小浜城跡の石垣前にて記念撮影

小浜城址(小浜神社)の正面からは車椅子で単独では入れませんでした。

反対側にまわると急勾配ながらもスロープ状の舗装路が有り、著者の簡易電動車椅子で入城することができました。

京極高次が大津城に篭城し毛利・立花の西軍一万五千を関が原の戦いに間に合わなくさせた功績で、加増され小浜に転封、築城したのが小浜城、高次公の妻、初の姉は淀君、妹の江は徳川秀忠の妻という複雑な立場。その後、徳川譜代の酒井氏の居城となります。
(平成22年登城)


 
   清洲城(愛知県)

再建された天守閣が新幹線や東海道本線(在来線)から良く見えるので行ってみたかったお城、JR清洲駅にエレベーターが設置されたという情報を得て出かけてみました。駅から天守閣までは大きな障害もなくたどり着けたのですが、正面からは階段があり、隣接する御殿風の建物にスロープ通路がありそこから天守閣の最下層階に行くことが出来るのですが、一段上が展示場でその後は階段しかなく残念、再建された時にまだバリアフリーの考えが浸透する以前だったのでしょう。かわりに画面にタッチすると城内の展示物を紹介するモニターが設置されており、お城の係りの方が説明してくださいました。城内一階に車椅子対応トイレが設置されていました。
(平成22年登城)

橋を渡れば清洲城天守閣

御殿風の建物から入る

段があり車椅子はここまで

城内の車椅子対応トイレ

織田信長の居城としてしられる清洲城ですが、この城が歴史上の重要な会議の場となるのは信長の死後の後継者を決める清洲会議と、関ヶ原の戦いの直前に福島正則・池田輝政ら豊臣恩顧の東軍諸大名が、清洲城に集結し動かないことに徳川家康が叱責の使者を送り、織田宗家を先の清洲会議で継いでいた織田秀信の岐阜城攻めがはじまった、もうひとつの清洲会議。信長の嫡孫である秀信は、二つの清洲会議により翻弄されることになります。
(平成22年登城)